消費の愛

とある概念がある。「消費の愛」、ただの造語である。ただ私の嫌いな言葉でもある、意味としては、言い難いが、例示をすれば理解し易いものだと思う、告白された時に、この人を振ると、この先自分に対して好意を向けてくれる人がいるのか?という考えに陥ることを私は個人的に「消費の愛」と呼んでいる。自己の想像力で限界を決めて、他者の愛を消費してる気がするから、消費の愛。このことを急に書き始めたのは身の回りで多いように感じたからであり、理由なんてない、社会に警鐘なんていらないし、それで幸せならそれでいい。少なからず私には関係ない。ただ書きたいし、この発想を文字に残したいから書いているだけでもある。さて消費の愛の問題点について列挙するものがあるとするなら、好きの強要である。前述の通り自分が無理して好きになろうとする傾向が見られる、それによって精神的に辛い(麻痺してるものもいるかもしれないが)、愛がわからない、相手を拒絶してしまう、なんていうことが起こっている、これはこれで問題じゃないだろうか?精神的不安定とは一番危ない、何をするかわからない状態を引き起こすことがある。精神的に不安定だと突発的自殺を引き起こす可能性もある、他殺でも同様。

 もう一つ、愛に飢える現象も問題ではないだろうか。相手に愛されないのが辛い、相手にされないのが辛い、なら相手を考えたら良いのでは?相手の気持ちになってみてはどうだろうか。他者の思うことをわからずして、どうして自分のことをわかってもらえるのだろうか。最近読解力の欠如がよく言われている。小説の登場人物の心情が理解できない、など。いじめがよく問題になるのはこの理由もあると思う、相手の気持ちがわからないから、平気で言ってはいけない言葉まで言う、気に入らないことがあるとすぐに「死ね」という。理由もなく死ねなんて言えるものか、それで相手が死んだらどう思うのだ?想像力の欠如も明らかになる。嫌な点があるなら言えばいいのではないだろうか?(この考え方が時代遅れなのかもしれないが) 私はいつも死ねしか言えない子供たちをみていると、将来が怖い。彼らの子供も死ねしか言えないように育ってしまう。それだけでなく、上司に対して文句があるとき死ねとでも言ってみると、即クビになるだろう。つまり、言動が正しく使えないので失業する。そのようでこの国に未来はあるのだろうか?

正直私のような人は時代遅れなのだろう(現役の高校生なのだが)。ただこの分を読んで思うことがあれば、自分の思う通りに動いてみて欲しい、言動を治すなど、そんなことでもいい、愛されなくても生きている人がいる、人を愛せない人がここにいる。それでも生きている、生きている価値なんて他者が決めるものではなく、自分が決めるものだ、自分の人生ぐらい、自分で決めればいい。私の知ったことではないし、第一君がどうなろうと私には関係ないし、どうでもいい。分かっていて欲しいのは変われるのは自分だけ、他者は変えれないからね。

 

 

 

人生初の論説文です、論理の飛躍多いけど、また頑張ります。